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2020年9月25日金曜日

玉縄1丁目解体開始

玉縄1丁目の分譲住宅予定地
一昨日から解体が始まりました。


この土地は・・・
100年以上前から
玉縄の土地をご所有されていた
大地主さんが住んでいらした家です。

私は、その土地を引き継いでこられた
ご主人(故人)と10年ぐらい前に土地の取引をし
その時、ご主人が子供のころの
玉縄の話を30分近く聞くことが出来て
その話がとても面白くて
今でも、一言一句鮮明に覚えています。

70年以上前の玉縄は
藁ぶき屋根の家が2軒ぐらいしかなく
今のメインストリートのバス通りは
川が流れており
その両脇は一面、田んぼと畑で
道路は、その川の横を通る砂利道だけ。

田んぼの真ん中に軍の施設があり
その後「玉縄国民学校」になった。
今の玉縄小学校ですね。

当時は、大船駅方面に抜ける道は無く
当社の前の道路は山で塞がっており
山を削り、道路が出来たのは昭和40年代。

栄光坂も存在していなかった。
今の栄光坂の所には小さな滝があり
玉縄台は、一面ススキ野原で
箱根の仙石原のようだった。
裾野から山頂まで見渡すことが出来きて
「よく頂上まで、走って登ったよ。」
と、笑いながら仰っていました。

柏尾川に抜ける方法は
今、のっぽ動物病院の横にある
小さなトンネルだけで
「岡本塩原隧道だけで、とても不便だった。」
あのトンネルは旧道だったのですね。

戦争終盤になると
朝鮮人が多くつれて来られ
全員、裸でフンドシという出で立ちで
山のいたるところに防空壕を掘ったが
すぐに敗戦となり
そのまま朝鮮人が多くが住みつき
今も、この辺は朝鮮籍の人が多い。
「あそこやこっちに今でも集落が残っているよ。」

国民学校は元々「龍宝寺」の境内にあって
第二次大戦中は
その校舎がアメリカ兵の捕虜収容所となった。
今の玉縄幼稚園の駐車場あたりです。
子供が遊ぶ山から
その収容所が丸見えで・・・

「ガリガリの米兵が何人も居た。」
「とても可愛そうで、よく畑からイモを取って投げ込みに行った。」
「生のイモを美味しそうに食べてたよ。」
「その喜ぶ姿が見たくて、色々と投げに行ったんだ。」

その様子は、他の方の証言が
ハマレポのHPで紹介されています。
ほとんど知られていない
昔の大船西口の様子を教えて下さったご主人。
有難うございました。

数年前、お亡くなりになられたのが
信じられません。

この度は、ご子息からこの土地を買い取ることになり
私がお父様との話を申し上げると
「父を知っているんですか!縁があるんですね。」
と、ビックリされていました。

話は戻ります。

そんな過去の記憶を懐かしがりながら
スタートです。

いままで、100軒近い解体をしてきましたが
この物件は、とても大きく
隣地への越境や配管の流入などがあり
特殊な部分が多く、今までで5本の指に入るぐらい
時間が掛かりそうです。


外は足場をかけただけで
あまり変わり映えしませんが

内部は、着々と解体が進んでいます。


来週には、大型重機が入り
建物外部からの解体を始める予定です。



場所は、玉縄で一番の一等地となります。

更地になると、土地はイメージが180度変わります。
どんな土地になるのか
個人的にも興味深々です。

ご周辺の方には大変ご迷惑をおかけします。
解体は、湘南界隈随一の「丁寧な解体」で有名な
株式会社不動マネジメントです。

よろしくお願い申し上げます。

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