東京新聞の連載コラム
「家族のこと話そう」にて
芸人『島田秀平』さんのインタビューに
啓発されました。
(※写真は東京すくすくより)
以下抜粋
父は長野市役所の職員でした。
雨が降ると・・・
川の氾濫や土砂崩れが起きていないか
夜通しの点検に出ていくことも
よくありました。
1998年に開かれた長野冬季五輪の
組織委員会へも出向しました。
子煩悩で教育熱心で読書好き。
夕食の時は2人の姉と僕に
ニュースを解説してくれました。
僕が第1志望の高校に入れず
往復3時間の私立に進むことになって
落ち込んだ時、父は
「良かったな。3年間電車でたくさん本が読めるな。」
と。その言葉で心が楽になりました。
実際に多くの本を読めたし
学校に地元の友達がいない分
自分から話しかけるようになりました。
父を思うと
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が浮かびます。
僕の中学の卒業式で
PTA会長だった父が
壇上で朗読したこともありました。
父は・・・
「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」
という感じで
休日に田畑で育てたリンゴや桃、野菜を
ほとんど人にあげてしまうんです。
僕が高校3年になった春、父は
「ちょっと胃が痛いんだ。」
と病院に行き
末期がんと分かりました。
入院前日の夕食の後
和室から父の呼ぶ声がしました。
入ると・・・
父が腕組みしてあぐらをかき
「俺のこと、おんぶしてみろよ」と。
恥ずかしいから嫌だけど
「できるよ。」とだけ答え
おんぶして畳の上を何周か走りました。
軽々と背負える力があることを
示そうと必死に。
「この家に男はおまえ1人になる」
「家族のことを頼んだぞ」
というメッセージだと感じました。
入院から4カ月後、父は亡くなりました。
高校卒業後に上京して
コンビで漫才を始めました。
「M-1グランプリ」の決勝に
進む目標がかなわず
30歳でいったん解散。
実家に帰ろうかと途方に暮れた時
母から・・・
「父のノートが蔵から見つかった」
と連絡がありました。
3冊のノートの表紙にはそれぞれ
私達子供の名前が書いてありました。
開くと・・・
「幼稚園へ通うためにかさを買う」
「模様は仮面ライダーでなければとだだをこねる」
といった成長の記録のほか
働くとはどういうことかという
父の考えが記されていました。
ハタとは他人やまわりの人という意味で
その人たちを楽にする
これをハタラクという
という文章があって
お笑い1本の道に挫折し
手相鑑定も仕事に加えようとしていた
当時の僕を肯定してくれたように
感じました。
最後のページには
入院前日のあの夜のことが
書いてありました。
「昨夜、息子が私を背負ってお座敷を3周。」
「更に向上心を求む。」
「よい息子よ。最愛の秀平。」
自分は愛されていた
そして今も見守られていると
力が湧きました。
ノートの大半はまだ白紙のまま。
僕にも今、4歳の息子がいます。
自分の人生経験の中から
すてきなことを書いて
託せたらと考えていますが
父のようにはまだまだ
書けそうにありません。
以上
本文は下記をクリック
https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/oyako/73014/
ハタラクとは
「人が動く」と書いて
働くですが
自分が動くことにより
『傍』が『楽』になることが
ハタラクですか。
なるほど。
・・・
・・・
・・・
この言葉は深い・・・
なるほど。
自分が働くことによって傍が楽しいのか。
家族を持つお父さんたち。
多くの社員を持つ社長さんたち。
家事に向き合うお母さんたち。
ボランティアに参加される方々。
皆、フとした時に我に返り
「自分は何のためにこんな事してるのか?」
を自問自答することが
必ずあると思います。
そんな時、この言葉は
必ず気持ちを支えてくれる
ちからになってくれると思います。
私はちょっと、当分の間
余韻が消えそうもありません。