だいぶ前の東京新聞の「思うがまま」というコラムにて
こんなくだりがありました。
すべての動物は、種の保存を図るために
ほとんど同類殺害は行わない
確かに複数のサル類やライオンなどで
群れのボスが交代するときに
子殺しが行われるのは確認されているが
それは、甚だ特殊な例である
しかし、人間は遠い昔から戦争
すなわちかなり大規模な同類殺害を行ってきた
人間に近い類人猿であるゴリラは
人間との遺伝子の違いがたった1.75%であるという
しかし、ゴリラは喧嘩をしても勝負を決めず
必ず仲裁者が現れ
最後は和解するという
ゴリラ社会には
人間社会にあるようなヒエラルキーが無いからである
人間という甚だ知能を発達した動物が
自然破壊という暴挙を行い始め
その行為が、同類殺害の始まりではないかと考える
森すなわち自然の中で生きる動物や植物の命
それらを何のためらいもなく奪った人間が
その動物の一種である人間を殺害することは
きわめて自然なのである
森の神を殺すことは
森にいるあらゆる生物を殺すことに他ならないのだ
哲学者梅原猛さんの「人間とは何か」の抜粋です。
なんとも、人間の価値観を飛び出した
俯瞰的な考えですね。
そういえば、剣道には「遠山の目付」という言葉があるそうです。
その意味は
一か所を凝視するのではなく
遠くの山を見るように
ぼんやりと相手を全体を取られると
何よりも素早く反応が出来る
というモノなのだとか。
日本は、何でもかんでも有識者を集め会議なるものを開き
物事の道筋を立てています。
ただ、その結果は見事に失敗ばかり。
有識者の面々を見ると、ある分野一辺倒の専門職ばかりを集めている。
その視点は、著しくその一筋に偏っているように見受けます。
コスト度外視。というか分からない。
総合的な判断も出来ない
だから、平気で何千億円も突っ込み、平気で失敗する。
それでいて、責任は一切負わない。
まあ、国立競技場やその他オリンピック施設、全部そうです。
豊洲問題をみても、失笑するしかない。
有識者連中、どこいったんだ?
そして、原子力を推し進めてきた専門職の連中を見れば
その異常さが手にとってわかるのです。
これだけの失敗をしておいて、誰ひとりとして、責任を負っていない。
平然と。
福島在住の僧侶である玄侑宗久さんが、東京新聞にてこう仰ってます。
東日本大震災から五年が経過し
なぜか良寛和尚の言葉を思い出した
災害に逢うが次節には
災害に逢うがよく候
死ぬ次節には
死ぬがよく候
これはこれ
災害を逃るる妙法にて候
(by良寛和尚)
これは、抗いようのない自然への
静かな信仰の境地である
その一方で
ナチスによる人災に翻弄され
強制収容所から生還したフランクルの言葉も憶いだす
「祝福しなさい、その運命を。信じなさい、その意味を」
強制収容所で両親と兄弟と妻を打ちなった彼が
それでも人生にYESと言う生き方を産み出したのです
おそらくこの五年
震災で家族を失った人々は
これも自然
と納得しかけながらも
生き残った自分の生に
YESと言えるかどうか
何度も揺れ動いてきたのではないか
震災関連死という人災の死者が多い福島県では
特にその後の「生の意味」が強く求められている
歴史上
完全に否定されたナチスのホロコーストとは異なり
原発はいまだ「過ち」とはされず
猶も再稼働されつつある
震災関連死者やその周辺の人々の
「死の意味」「生の意味」は
それによって隘路に隠され
見えなくなってしまった
被災者の心のケアに力を入れると国は言うが
それならまず福島第二原発の廃炉を業者任せにせず
自ら決めるべきだろう
これはこれ
厄介な人災を逃るる妙法であるし
多くの人々の死や生の意味を見出しやすくなるはずである
善悪の判断をするのはだれなのでしょう?
すでに、人間は自然を顧みないところを見ると・・・
実は、「悪」そのものであって・・・
同類殺害を半面では嫌悪しながらも・・・
その半面ではなんとも感じていないのではないか?
だから、イラクやシリアで、毎日何百人が殺害されていようが
気に留まらない。
福島でいまだにメルトダウンした原子力発電所が3基あり
その核燃料がどこにあるかもわからないのに
その近県でオリンピックを開こうとしているのではないか?
そして、本来は原発の心配をしなければならないのに
それを全くのよそに
競技場の建設の心配を、国を挙げてしている。
俯瞰的に見たら・・・
その異常さは誰もが分かるはず。
豊洲で基準値をわずかに上回るベンゼンが出ただけで、大騒ぎしている人たちが・・・
なぜ、福島で今も続くメルトダウンを、風評被害で片付けられるのか?
不思議でならない。
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