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2023年9月10日日曜日

鷲田清一先生

哲学者の鷲田清一さんが
また、垂涎のコラムを
東京新聞の紙面で語っていたので
ご紹介します。

以下転載(抜粋)です。

ITやSNSといっても
私はEメールと検索という
ごく基本的な機能を利用しているだけで
ツイッターもしない。

だから、イーロンマスクなる人物に
ツイッターが買収されたと聞いた時も
すぐに偽名だろうと思った。
てっきり・・・
「IRONMASK」(本物/ERONMASK)
鉄仮面だと思ったのだ。

報道によれば
その鉄仮面氏は
買収後に
人の気持ちを逆なでするような
方針を次々に打ち出している。

①従業員の大量解雇や求職措置
②利用者の特定アカウント凍結
③閲覧件数の制限
④名称変更
⑤ロゴ変更

もはや『公器』と呼んでもおかしくない
ソーシャルネットサービスをめぐり
その利用規則や
セキュリティの仕組みを
オーナーの一存で
変更するという事が
どうやら現実に起こっているらしい。

「この企業は俺のものだから、どうしようと俺の勝手」
という思いが早々に
外に噴出したのだろうか?

これは、わたしの所有物なのだから
「所有者は取扱いや処分を自由に決めてよい」
という理屈だ。
この理屈は今日(こんにち)
誰もが日常的に言いつのる理屈でもある。

これは私の持ち物だから
これは私の体だから
これは私の人生だから

決めるのは私ですという理屈。

実際の社会の近代化の過程で
確立されたこの『所有権』思想の主流は
「これは私の物である」
という所有権と
「私はそれを意のままにして良い」
という自由処分権を
ずっと、同一視してきた。

そして、その背景には
『所有権こそが個人の自由の確認をなす概念だ』
という認識があった。

だから・・・
多くを所有すればするほど
より多くの「自由」を享受できると
いう思いも出てくるのだが
これは注意を要する考え方である。

多くを所有するには貨幣がいるが
貨幣を使えば
貨幣にともなう「力」も消えてしまう。

つまり、貨幣というものは
それで何かを所有できる可能性によって
ある種の「権力」を持つものであって
使われるためではなく
所有されるためにある。

貨幣は・・・
使用すれば元も子もなくなる。

いま一つの盲点は

身体も自らの所有物であり
意のままにして良いと考えるが
何かを自分のものとして
具体的に所持することを
可能にするこの身体は
明らかに思いのままには
ならないものである。

ひいては・・・
その身体を台座とする「わたし」こそ
己の自由にならないものの
筆頭だということである。

このように
何かを所有するという
事態のまさかの根幹に
自分の意のままにならない
事態が鎮座している。

このことを甘く見てはならない。

人は将来
起こるであろう出来事を
現在の自分に
可能な想定の範囲内で
推し量るしかないが
その推量では・・・

■人間には予見不可能なもの
■人間には制御不可能なもの

を最終的にカバーできない。

そして・・・
私達が今、喫緊の課題として
直面しているものの代表が

『原子力発電所の廃炉』

であり
生成AIと呼ばれる

『人工知能の開発と制御』

である。

これらこそ
人間の自由処分権の
拡張に次ぐ拡張のなかで
顕著化してきた
「人間の意のままにならない」
ものの象徴的な事例と言える。

それらのコアにある問題を
一切直視せずに
それでも「何とかなる」と
言い続けるとしたら

それこそ鉄仮面ならぬ
鉄面皮ではないか?

以上。

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