また、トリビアを一つ。
蓮光寺というお寺の住職のお話。
私たちは「清め塩」を使いません。
魔を祓うためにお棺の上に刃物を乗せたり
火葬場の行き返りで道を変えたり
家に帰れば、死の穢れを清めるために塩を撒くなど
葬儀の時に仏教の教えとは無縁の色々な迷信が行われます。
それらは
各地の習慣やしきたりとして
何の疑問も無く行われていますが
それが亡き人を限りなく貶めている行為だと
気が付いている人は少ないようです。
たとえば「清め塩」は
現在、ほとんどの葬儀に見受けられ
会葬者にもお礼状と共に渡されています。
そして
この清め塩でお清めすることが
当たり前だと思っている人が多いようです。
しかし、この塩で
いったい何を清めようというのでしょうか?
清めと言うからには
何かの「穢れ」を除くという意味があるのでしょう。
そうだとすると
葬儀は、穢れた行為であり
亡き人は、穢れそのものだという事になってしまいます。
生前に
父よ母よ、兄弟よ友よと呼び親しんできた方を
亡くなった途端に「穢れたもの」としてお清めしていくことは
なんとも無残であり
悲しく痛ましい行為ではないでしょうか?
仏教では
決して、死を穢れと受け止めることはありません。
反対に「死もまた我らなり」と受け止め
生死するいのちを精一杯生きていくことこそ
人間としての生き方であると示しています。
仏教に照らすと
「清め」の行為は、亡き人を貶めるばかりでなく
私自身の生き方をもあいまいにさせる迷信であり
一切不必要であることが知らされています。
いわれてみれば・・・
当たり前のように、お葬式に行くと塩をもらい
我が家に入る前に塩を玄関先で体に振り掛けなければ
家に入ってはならないと、親に教えられました。
なるほど。
親しい間柄だったから葬式に行くわけで・・・
帰ってきた途端に、塩を撒いて払いのけるなんて
物凄い矛盾ですね。
43才になって初めて、気が付かされました。
まだまだ、無知の塊で・・・
お恥ずかしいかぎりです。(TT)
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