2016年5月24日火曜日

鷲田清一

連日、アイドルが刺されたというニュースにワイドショー。
子供とテレビを見ることができない。

被害者の一刻も早いご回復を祈念します。

それにしても、人間というのはつくづく学ばない生き物だと思う。
こういう凄惨な事件が起こるたび・・・

「事件前、警察に何度も相談をしていた。」
「警察は、適切に対応していたと回答。」

今一度、言います。
警察は、何もしてくれませんよ。

先日も、うちの会社の前で、不審者が車を乗り捨てていきました。
あまりにも異常な様子だったので、警察に電話をしたのですが、巡回の警察官が顔を出しただけで、ちゃんとした対応はありませんでした。
その後、車が止まりっぱなしだったので、その車に書いてある会社に電話。
すると、盗まれた車だったことが判明。

その会社の人が、すぐに取りに来ましたが、カギが無く・・・
警察に電話をして、ようやく現地に警察が2人来て・・・
こういいました。

「被害届を出しても、犯人は見つかる可能性は少ない。」
「会社の車だと鑑識しても指紋が多数出てくるので、犯人の特定はできない。」
「特定するとすると、社員の指紋を全部取らせてもらうことになる。」
「事件にすると、現場検証等、多くの時間を費やしますよ。」
「車が戻ったなら、良しとしましょうよ。」

私は犯人を見たので、特徴を伝えたのですが・・・目の前で、警察は、被害者に事件として扱うのをやめるように諭すありさま。

話によると・・・
警察も、人員が減っていて、小さい事件をいちいち扱っている暇がないのだとか。
そのくせ、シートベルトとか一時停止の取り締まりは、一生懸命やってる。(笑)

自分の身は、自分で守る。
子供の身は、家族が守る、親が守る。

ストーカー、虐待やいじめ、自殺があると・・・
矛先は、警察、学校や先生、児童相談所に向けられます。
子供が自殺した親が、学校を訴えるニュースばかりです。

でも、個人的に、ものすごい違和感を覚えます。
依存しすぎですよ。
他人に。
家族という絆が、希薄しているとしか思えません。

私が尊敬する哲学者「鷲田清一」さんが、東京新聞に下記コラムを掲載されていました。

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現代の都市生活は
ほぼ全面的に、行政や企業の提供するサービスに依存している。

流通とサービスの緻密なシステムから成り立つ「消費社会」では
人々は、生活に必要な物品どころか
「命に近い仕事」まで、税金や料金を払って、それらを享受する。

排泄処理
子育て
介護
病気予防
災害予防
看取り
・・・etc

便利ではある。
しかもこれは「安楽」を求めて私たちが望んだことである。

だが、それを購入する金銭が底をついたとき
あるいはそのシステムが機能不全に陥ったときは
自身の家族の生存そのものが根底から脅かされる。

その「命に近い仕事」を自らの手で行う技法の大半は
コミュニティーの中で伝授されることが少なくなり
それらはもはや、私たちの手には無いからだ。

私たちの個人生活は
すでに市場によって
いわば植民地化されている。

そのことを近年、大きな災害のたび
あるいは目に見えて進行する社会格差の増大や
失職の不安の中で、思い知らされる。

「消費」とは、そもそも「費やしてなくすこと」である。

消費はその意味で、生産や蓄積の対極にある行為である。
都市生活は、物品やサービスを市場で買うことで維持されるのであるから
財貨を消耗するという意味では、たしかに「消費」がその中心にある。

しかし
フランスの哲学者、ベルクソンによれば
そうした購買行為とは異なる意味で、生命の維持そのものが「消費」である。
植物を取り集め、葉緑素の働きを介して蓄積した太陽エネルギーを
動物が体内に取り込み、通過させ、運動エネルギーに変換する。
つまり、「徐々に蓄積し、瞬時に消費する」というのが
動物の生命の実相だというのである。

「徐々に蓄積し、瞬時に消費する」
その生命維持の過程を人々はずっと共同して行ってきた。
「生活者」として。
が、私たちは、現在、そのほとんどを購買行為に転換して暮らしている。
「消費者」として。

私たちは今、ナショナルな経済システムにぶら下がりつつ
さらにそれを侵食してくるグローバルな市場に
自分たちの生活が翻弄される中で
それらに身をそっくり預けることを危ういと感じだしている。

地方に移住する人々がじわりじわり増え続けているのも
みずからの手で制御できるサイズの経済行為を保持しておくことが
生き延びるために不可欠なことだと思い定めつつあるからではないか?

そういう視点から
あらためて生活を見直すならば・・・

地産地消のエネルギー
ありあわせの物をどのように活用するか
素手の知恵や技を磨くこと
人々の間でその生存と知恵と技が世代を超えて伝授されるようなコミュニティーを再建することが
一つの課題として見えてくる。

そう!

消費者から
生活者へと

軸足を戻すこと。
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これを読んで、ハッとしました。

我々を取り巻く環境は、すべて「消費者のエゴ」の塊ですね。

先日、鎌倉市の稲村ケ崎で、下水道が破裂しました。
1か月以上たった今でも、改善することができず、鎌倉の海に生活排水が垂れ流しになっています。
海から基準値を超す大腸菌が検出され、鎌倉市は滅菌薬品を大量に海に散布しています。

すると、その薬品が潮と一緒に舞うようで
沿岸に住民に「目が痛い」「のどが痛い」という、健康被害が発生しています。

鎌倉市は、「念のため海には入らないでください」と、告知。

ですが、告知が弱く・・・
いまだに知らずに海に入る子供たちやサーファーが多くいます。

さて、これ、だれが悪いのか?

17000世帯の汚水です。

トイレの糞尿
キッチンの油や洗剤
洗濯機の排水や洗剤
お風呂で使われた、シャンプー・リンス・石鹸
お風呂を洗ったクレンザー、カビキラー等々

これが、生活排水です。

すべてが、そのまま海に流れている。

危険ですね。
ものすごく危険です。

その状況で、由比ヶ浜や七里ヶ浜の砂浜で、子供たちが遊んでる。

危機管理が、まったくなっていません。

公共も、民間も、個人も、親も、子供も。

それは、消費者と決め込んでいるからなのでしょう。
金を払えば、安心安全。

その意識の「怖さ」を、鷲田さんのコラムで思い知らされます。

自分の身は、自分で守るしかありません。
それは、多岐にわたります。

先進国の人々は、「生きていく力」を第三者に依存しすぎているのですね。


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